クリント・イーストウッド監督の硫黄島二部作のうち、アメリカ側の映画。
モノクロ映画ではないのにモノクロ映画を思わせるような、全編を通じて色味やコントラストが抑えられた画面が、声高に何かを伝えようとするでないこの映画によく合っていると思った(何だか上手く言えないな)。


島に上陸した若い米兵たちが、姿の見えない日本兵に次々とあっけなく殺されていく様子は、素直に「ああこんなの嫌だなぁ…」と思えた。
プライベート・ライアン」の冒頭の、上陸から十数分にわたる戦闘を見ていた…途中から画面を見るのを止めて膝の上の鞄を見ていたが…ちなみにこの間に席を立って外に出て行った人も少なからずいた…時の不快感と同じものは感じなかった。「プライベート・ライアン」は私には作為的に思えた。悲惨な戦いを忠実に再現して見せているようで、しかし「水中を通り抜ける弾丸が作り出す真っすぐな、あるいは弧を描く軌跡」の美しい映像が度々映し出されるのには、あくまで映画的に美しく印象的な画も見せなければ、という意図を勝手に感じてしまったので。それの何がおかしい?と言われるだろうが、何だかあの場面が「現実に起きていたことの悲惨さ」を大きくスポイルしたようにしか思えなかった。


話が逸れた。この映画を見て(恥ずかしながら)初めて知ったのは、アメリカも大戦末期はかなり大変だったということ。財政の逼迫、武器弾薬を作る金属の不足、国民の厭戦ムードの高まりなど。
終戦後、アメリカの豊かさを目の当たりにした日本人が「こんな国と戦争してたなんて」と思ったことや、戦時中のアメリカの雑誌の広告などを見てもあまり戦時下というムードを感じなかったことから(これは単に私の思い違いだっただろう)、アメリカは余裕たっぷりで戦争してたのかと思っていたけど、そうではなかったらしい。
ただ日本と違って食べるものは潤沢にあったようで、人間お腹が空いていなければ不満を募らせることもないのか、人々の間に厭戦ムードはあっても、それが大きなうねりになることもなかったんだろう。


エンドロールでは、実際の兵士たちや戦場の様子の写真が次々と静かに映し出される。写真に写っていた兵士の大半は島で死んだだろう。
その時には多大な犠牲を払ってでも島を手中に収めること、もう一方にとっては死守することが不可欠だったが、絶海の孤島である硫黄島の現在の荒涼とした風景を見たら、こんなところで若い兵士が何万人も死んでいったのは、何と無益で理不尽なことだったかと思える。