…というのが朝刊のトップ見出しだった。「(米国産牛肉の)日本産牛肉とのリスクの差は非常に小さい」からゴーサインが出たそうだ。


私(うち)は米国産牛肉がなくても一向に構わないが、育ち盛りのお子さんがいるような家庭ではそうばかりも言ってられないのが現実だろうか。
日本の消費者の米国産牛肉離れが進んでいること、そんな消費者の意向を踏まえて小売業者も慎重になっているために店頭に並ぶのはまだ当分先で、量も少ないとのことだが、早晩妥協の産物である怪しげな肉が出回って人々の口に入ることになるわけだ。
これでいいのか。「何」を(どう、どれだけ)食べるかで健康にもなれば病気にもなる。つまり「何を食べるか」は、決して大げさな言い方とは思わないが、生死を左右する問題だ。だから日本人に限らず誰でも「何を食べるか」かを選ぶにあたっては真剣になって当然なのに、アメリカ(人)はこんな簡単且つ重要な問題に何故こうも無頓着なのだろうか。自分たちに対してだけでなく、他人に対してもだ。自分たちの食に対する無頓着さが今、自分たちの社会にどれほどの悪影響を及ぼしているかが火を見るより明らかになっているのにだ。


米国産牛肉の輸入再開を巡る交渉では、これまではアメリカの圧力にはたやすく屈してしまうイメージの強かった日本にしてはずいぶん粘り強く強硬な姿勢が見て取れて、まぁものすごくというわけでもないが頼もしく見えた。しかし結局は充分に議論を尽くさぬままにアメリカの要求を飲むようなことになって、ああやっぱりか、と失望を感じる。


以前テレビで日本に暮らすイスラム教徒の人たちの暮らしぶりを見た。彼ら彼女らは肉を口にしない。肉に関わる一切を口にしない。スーパーで買い物をするときには必ず原材料の表示をチェックしなければならない。スープや菓子などの食品にも肉のエキスが使われていたりするから。
米国産牛肉を買わないのは簡単だが、何も考えないでいると他の食品を通して目に見えない形で米国産牛肉を口にすることになりかねない。私もこれからはイスラム教徒の彼ら彼女らのように商品を手に取って原材料をチェックしなければいけませんね。


まぁ、○縄にいたときにさんざんステーキやら何やら食べてたから、もう手遅れかもしれないんだけどねw


ところでマスコミ各社にお願いしたいことがある。来年吉野家が牛丼の販売を再開すれば、また客が店に押し寄せてお祭り騒ぎになるだろうが、決してその様子をテレビで放送したりしないでほしい。まるで日本国民全員がこの日を待ちわびていたような印象を与える映像がアメリカ政府に間違ったメッセージを送るからだ。